2月3日は節分の日。
「鬼は外!福は内!」と、大きな掛け声とともに福豆を撒きながら家内安全を祈願する。節分は古き良き日本の風習です。
地域によっては、「福は内、鬼も内」という掛け声もあるそうです。
何とも人情がある掛け声じゃないですか。
いつの時代も厄を祓い、幸福を願う人々の心は変わりません。

ところで、節分の行事で悪役とされる「鬼」は一体何者なのか、ということを考えたことはありませんか?
古い説話集である「日本霊異記」に登場する鬼は、諸悪の限りを尽くし、人間に災いをもたらそうと様々な悪事を企てます。
その姿形は、まさに鬼の形相という形容にふさわしく、とても禍々しい怪物像として描かれています。
しかし、現代は科学万能な時代。この世の中に、そのような奇怪な生物など存在しないことは言うまでもありません。
もし、生物学者ならば「鬼は空想の産物である」と、言い切ることでしょう。

しかしながら鬼という存在は、実在するかのごとく地域の習俗へ溶け込み、限りなく信仰に近い形で日本文化の一部として継承され続けています。
むしろ、神仏と同等の扱いで敬われている。
本来ならば忌み嫌われるはずの鬼が、なぜ妙な親近感を持って人から人へ語り継がれるのでしょうか。
その理由はただ一つ。
鬼は人間の影を映し出す分身に他ならないからなのです。
人の姿と似せて描かれる鬼には、人間の内面にある憎悪や嫉妬といった負の感情が表現されているのです。
固定観念や先入観がもたらす、いらぬ感情とは無縁の、清廉潔白の人生を生きて行けたならば、どんなに素晴らしいことでしょうか。
しかし、人間社会に生きるからにはそのような人生はほぼ叶いませんね。
そうした負の感情に支配されているとき、鏡に映る自分の顔を見てみると、なんとおっかなく、怒りに満ちた、まさに鬼の形相をしていることでしょう。
「人を憎んじゃいけない、妬んじゃいけない。でも、分かっちゃいるけど、やめられない」
この人間の持つ性を、鬼はその姿で教えてくれているのです。

誰しもが「善人」であり続けたい。
しかし、人間社会はそう甘くはありません。
人間を生きる、というのは往々にして誰かを傷つけ悲しませるものです。
お互いに傷つけあい、傷を癒しながら、自らの内に巣くう鬼の存在を悟り、たえず自己を見つめ直すことで、共に成長していくものです。そう、決して鬼(自分)に負けないように。
おそらく日本霊異記を編纂した著者は、想像力を最大限に駆使して人間の善と悪を万人が納得する形で理解できるよう知恵を絞ったはずなのです。
そして苦心の末にようやく鬼が生まれました。

「鬼さんよ。いつも共にいてくれて、いろいろ教えてくれてありがとう」
「今日は節分だから、ひとつ一緒に豆でも食べようじゃないか」

もともとは同じ人間から生まれ出たもの。
「鬼は外!」では、まるで自分の一部を外に追い出すようなものです。どうせ切っても切れない関係であるなら、「鬼よ、いつもありがとう!」と言えることが最高じゃないですか。

福永法源 ブログ